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自由の意味とは?自由をデザインする技術を磨けば人生の自由度は上がる
『自由になりたい』
『もっと自由に生きたい』
人生の中で、『自由』というものを追い求める人が多いようです。今の人生の中で、何一つ不自由を感じていない人、なんてそもそも存在しないとも言えますが、悩み多き現代社会の中で、みんな程度の差こそあれ、現実の境遇に何かしらの不満を感じて生きていることは確かです。
この記事は、『自由』というものについて掘り下げて考えて、『自由』という言葉の中に込められた概念についての理解を深めると同時に、あなたが自分自身の心や『存在の本質』というものに向き合うサポートになれば、という思いで執筆しています。
あなたが人生の中で、あなたを幸せにする、あなたらしい自由を見つけていくきっかけを受け取っていただければ幸いです。
また、関連の記事も紹介しておきます。
併せて読めば、相当に理解が深まるはずです。
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では、本題に入っていきましょう。
この記事の目次
自由とは何か?
日本語の『自由』という言葉は、もともとは仏教など東洋思想の中の『自らに由(よ)る』という意味の言葉でしたが、そもそも明治維新以前には一般的な言葉ではありませんでした。
明治5年にJ・S・ミルの『On Liberty』(『自由論』)という書籍が中村敬太郎によって訳されたときに、『Liberty』という言葉を説明する言葉として持ってこられたのが上記の『自由』という言葉です。
以後、日本人の中でも『自由』という言葉が次第に浸透していきましたが、当初は『Liberty』の訳語として入ってきた概念だったのに、日本では自由のもう一つの側面である『Freedom』的な意味合いでの使われ方が一般に広まってしまったように感じます。
『Liberty』と『Freedom』の違いについては後述しますが、『Freedom』とは、シンプルに言えば『束縛がない』という意味での自由を意味します。
『自由』と聞いて『自らに由る』というイメージではなく、『束縛や囚われるものがなくて自由』という方のイメージを思い浮かべる方も多いのではないでしょうか?
『自らに由る』こと
『束縛がない』という意味の自由は、そもそもの『自由』という言葉の語源、『自らに由る』という意味とはニュアンスがズレてきます。
『由る』という表現自体、現代人で使いこなす人が少なそうな難しい言葉ですよね。
『由る』とは『それに起因すること』という意味になり、従って、『自らに由る』とは、
『自分の中から起因する』
『自分に応じる』
『自分に従う』
といった意味合いになってきます。
『束縛がない』というのは外的な要因に主導権を握られ、支配されているイメージですが、『自分に起因する』は100%、自分の内側に主導権があります。
Freedom(消極的自由)とLiberty(積極的自由)
このブログのコンセプトでもある『リバタイズ:自由をデザインする技術』という言葉は、僕の創った造語ですが、人生の中で『自由度を高める』ための技術、という意味の概念です。
『自由度を高める』と言うと、多くの人は『自分を縛る制限から【逃れる】』 ということをイメージしますが、実際のところ、【逃れる】ことでは、決して自由は実現しません。
逃れても逃れても、人の心は必ず何らかの制限・縛り・ルールの束縛を受けるものだからで、それは、すべての人間が持つ、『煩悩』というものに根ざしています。
では、一体、自由はどうやって実現するのか?ということですが、これは『自分の大事なものを【優先する】』ことで成立します。
西欧社会の中でも『自由』という言葉は、2つの側面を持っています。
『○○からの自由』という【消極的な自由】、
そして『○○への自由』という【積極的な自由】です。
前者は”freedom”という言葉になり、後者の方は”liberty”となります。
僕らが赤ん坊としてこの世に生を受けた時、誰もが”freedom”という【消極的な自由】を持っています。
ですが、社会的な動物である『人間』として育つ環境からいろいろなものを吸収・学習していく中で、『動物的な自由』でもある”freedom”を失っていきます。
“freedom”を失っただけの状態は、一種の『奴隷状態』と言えます。人間に飼われて生来的な自由を失った、『家畜』のように、本人の意志とは関係のない束縛を受けながら生きている人たちです。
ここで、その人たちを縛っているのは、
『運命』
『神』
『宗教などの戒律』
『社会のルール』
『身の回りの人たちの自分への期待』
『社会的な立場から生まれる圧力』
『世間体』
『常識』
など、情報空間に存在する種々のルールです。
これらの共通項をまとめると、
『他人の用意したルール』
『自分以外の何者かに用意されたルール』
と表現できます。
それに対し、社会生活を送る中で、心(人格、人間性)が磨かれ、精神的な成熟を身につけた人は、”liberty”という名の、『積極的な自由』を獲得します。
“liberty”を獲得した人も、いろいろなルールに満ちている、人間社会の中で生きていることに変わりはありません。ですが、彼らは、そういった、
『他人の用意したルール』
『自分以外の何者かに用意されたルール』
ではなく、
『自ら設定したルール』
を優先します。
積極的自由:Libertyと信念・信仰の力
『自ら設定したルール』とは『自分は何を大事にし、何を優先するか?』というロジックのことを言い、別の表現をすれば、
『信念』
『信仰』
という言葉になります。
ロジック、と言いましたが、実際のところ、『信念』『信仰』というレベルで、深くその人の行動や思考、感情にまで根ざすような、そういう【信念体系】は、言語的な処理をする左脳言語野ではなく『右脳言語野』に、言語化されない非言語的な不文律のアルゴリズムとして形成されます。
これを、『神の声』と表現する人もいます。
『信念』
『信仰』
は、誰しも何らかの形で持っています。ただ、多くの人にとって、それらは、自分の意志で選んだものではなく、生きていく中で経験してきたことで、自然発生的に形成されたもの、です。
“liberty”を実現する人は、こういう『信念』『信仰』を、きちんと自分の理性を使って吟味し、自分の意志で選ぶ人だと言えます。
シンプルに要点をまとめると、
何かから逃れようとしても、決して自由は実現しない。
理性をはたらかせて、自分の意志で、自分にとって大事なものを認識し、それを優先することのできる人間が、真に『自由』な人だと言える。
ということになります。
この要点・ポイントだけ押さえれば、世の中にいる人たちの本当の『自由度』も簡単に見抜いて判断できるようになります。
FacebookやInstagramなどのSNSは、いくらでも自分を『自由』に見せることができるので、騙されてしまう人も多いです。ですが、発信だけでなく、行動や背景にある動きを観察していけば、その人が、どういう【価値観】に支配されているのかが、丸わかりになってしまいます。
自由じゃないのに自由人ぶってる人、意外に多いので要注意ですね。
参考記事:
ニセモノの自由人にご注意!本当の自由人は『人間らしさとしての5つの自由』を満たした人
自由と責任 選択の自由とは?
これを読んでいるあなたにとって『自由』とはどういうものでしょうか?
僕自身のことを振り返ると、最初に強く『自由』というものを意識したのは、確か高校生くらいの頃だったように思います。
学校やテスト勉強から
解放されたいという自由。
一緒に住む親兄弟からの
うるさい干渉を受けない自由。
好きな時に好きなことを
したいという自由。
今振り返ってみると、これらはすべて『束縛から逃れようとする自由』と言えます。
世間一般で考えられる『自由』というものは、大体、こういう『束縛からの自由』の意味合いが主流になっているように思います。
自由という意味の『liberty』という単語は、
『社会的・政治的に制約されていない』
『負債を負っていない』
という意味のラテン語『liber』を語源としています。
これは、自由の消極的側面 (しなくてよい)が強調されているといえます。
もっといえば、これは『責任を伴わない自由』ともとれます。『責任』という束縛(本当の意味を考えれば違うのですが)から逃れようとする『自由』というわけです。
この、社会的な権利としての『自由』というものは、不完全な人間の自我が生み出した不自然な『自由』だと思いませんか?
動物の中で、『束縛』という概念を思い描くことのできるのは人間しかいません。
人間は、進化の果てに前頭葉に宿る自我(顕在意識)を得たばかりに、自らを縛りつける束縛という概念も作り出し、今度はそれから逃れるために『自由(liberty)』を求めるのです。
人が何かを認識する時に、必ず何らかのゲシュタルトを構成します。ゲシュタルトとは、全体性や構造を表す言葉です。
紙に書かれた直線や曲線の集まりを見て、それを意味のある文字と認識することです。
細胞の集まりを見て、人間や動物を認識します。
木がたくさん集まってるのを見て森を認識します。
目に見えるものだけでなく、五感によって認識するもの、意識内の思考やイメージによって認識するものは、すべて自分の脳が創り出したゲシュタルトによって、意味を持つのです。
このゲシュタルトによって形成される信念体系が『観念』であり、それが『固定観念』や『先入観』という縛り(束縛)になるのです。つまり、人間は、生きている限り必ず何らかの『束縛』を自分自身で生み出し続ける動物なのです。
ということは、『自由』を束縛のない状態と考えれば、決して満たされることのない欲求をエンドレスに追い続けることになるのです。
僕の中で、より大事だと思うのは、積極的側面としての自由だと考えています。動物のように、自我がないから束縛も生まれず、自然な状態、本能のままに生きる自由、というのとも違います。
これは、自我(顕在意識)を持っているからこそ行使することのできる『選択の自由』という意味です。もっといえば、『束縛を自ら選ぶ自由』です。
『束縛』とは『信念』や『信仰』、『自分の中のルール』と言い換えることもできます。自分が自分の人生を生きる上で、どういう『束縛』を選ぶのか、それを選択する自由です。
これは主体的な自由、自ら選択する自由なので、必ずその裏には『責任』が発生します。
『責任』とはResponsibility、反応(response)を選択する能力(ability)です。
自分で自分の好きなようにルール(束縛)を選び、その結果(返ってくる反応)をすべて自分で受け取るという『責任』です。
もちろん、『束縛』を選んだ後、それが気に入らなければ手放す自由もあります。
束縛から逃れようと、必死に束縛のない状態としての自由(そんなものはどこにもないのですが)を追い求め続けながら生きるのか。
いまここで、これまでの束縛を手放したり、より気に入った束縛を選んだりできる、という自由を持っていることに気づくのか。
あなたはどちらの生き方を選択しますか??
この選択自体もあなたの自由です。
リバタイズ:自由をデザインする技術
僕の情報発信の活動テーマ、コンセプトは『人間として自由に生きること。自由に生きる仲間を増やすこと』であり、Libertyze(リバタイズ)という言葉で表現しています。
この言葉は僕の造語です。
リバタイズする=『自由』を創る
というニュアンスで、これは『技術』、もしくは能力・スキルのようなものだと考えてます。
精神的にも物質的にも執着や束縛から解放され、本当の意味で自由に生きているような人は、『リバタイズする力』が優れているから、自由な生き方を実現できている、というわけです。
外的な要因でその人が自由になるのではなく、人生の中で『自由』を創る能力に優れているから、結果として自分の人生を自由に生きられる、ということです。
また、『能力』なので、生まれや育ち、身を置く環境に関係なく、磨くこと、鍛えることで誰でも高めていくことができるのです。
僕自身、会社員を辞めて独立する前後の1年間で『生き方』を大きく変えました。そして、そういう実体験を通して、人間として『自由』に生きるために、何が必要なのか、どういう能力を磨けばいいのか、そういうことが、しっかりと観えてきたんです。
心の中の選択肢の数を増やすこと
あなたは、人生で『自由』になるためには何が必要だと考えるでしょうか?
たとえば、お金だけあっても、自由じゃない人はたくさんいます。
現代日本は、世界でも有数の物質的に豊かな国です。でも、成熟社会ならではの閉塞感や、がんじがらめになった社会通念や常識、固定観念に人々は縛られています。
その中で、この国に暮らす多くの人たちは、心の奥に『解放されたい』『今よりももっと自由になりたい』という思いを抱きながら生きています。
会社員にしても、独立して自営していても、専業主婦として生活していても、毎日の繰り返しの仕事や、やるべきこと、仕事人としての自分、父親(母親)としての自分、パートナーとしての自分、家族の一員としての自分、そういう『仮面(果たすべき役割)』にまとわりつくしがらみに囚われて、自由を失っています。
『生きていくためには仕事をしないといけない』
『この仕事は、自分がいなきゃまわらない』
『家族を養っていかないといけない』
『自分には愛する人を幸せにする義務がある』
自分のアタマの中の観念に支配されて、【本当は無限にある選択肢】の中の、ほんの一部しか観えていません。
過去に『なんとなく』の選択で選んだ今の仕事や役割に縛られ、心を囚われているために、現状を打ち破るための【選択肢】が観えなかったり、観えていても、怖くてそれを選択することができません。
一日の中で、『本当の自分』として生きている時間が一体どのくらいあるというのでしょう??
現代人の多くは、『本当の自分』を見失ったまま毎日を生きています。
また、スピリチュアルや宗教などの精神世界に没頭し、『心の自由』『精神的な豊かさ』だけを求めている人たちの多くも、自分でも気づかないうちに『暗黙のルール』に囚われて自由を失っています。
『こういう考え方をしちゃいけないんだ』
『波動の低い人と付き合っちゃいけない』
『しっかり瞑想しなきゃダメだ』
『現世的な欲求に囚われちゃいけない』
『こんなネガティブな考えに囚われる自分はダメだ』
本質を見失ってはいないでしょうか??
また、
『お金なんかなくても幸せになれる』
『物質的な成功を求めるなんてむなしいだけ』
『この世は幻想なのにがんばってもしょうがない』
『ささやかな小さな幸せで自分は満足できる』
このような考え方も、その背景に、
『自分は物質的な成功ができないから諦めよう』
という無意識の思い込みがあるということに、気づいているでしょうか??
物質的な成功を否定する人は、自分の生きる世界の中で、自ら望んで『制約』を創りだしているようなものです。
お金がなくても家族で仲良く幸せに暮らせればいい、という人は、経済的な困窮が、いともたやすく家族の絆を壊してしまうリスクになることが観えていません。
アメリカの調査によれば、夫婦が離婚にいたる最大の原因は、『経済的な問題』だということが明らかになっています。
精神的な充足だけを求めても、今、僕らが生きている世の中が、『資本主義経済』によって成り立っている、ということを冷静に見据えれば『物質的にある程度の成功を収めること』は、『精神的な充足』にとっても必要条件であることは明らかです。
心と身体を切り離して考えてはいけない
このように、今、目に見えているものだけを観て、小さな満足に浸ってしまうのは、『自由』ではないのです。
心の自由は、心だけで実現できるものではありません。精神と物質を分けて考えるのは、もはや旧い、時代遅れの考え方になっています。
本当の『自由』はどんなものも否定しません。ただ、選択肢をどこまでも広く見渡せるのです。
お金があって幸せなのもいい、お金がないなりに幸せなのもいい。ただ、両方の世界を知って、『より、自分が好む方を自由に選択できる』というのが、本当の自由です。
自分の知っている価値観の世界だけを観て、自分が経験していないもの、手が届かないと諦めているものを『否定』することでは、真の自由や『精神的な充足』にはたどり着けません。
真の自由、真の豊かさとは、精神面と物質面、両方の『自由を創る技術』がバランスよくかみ合ってこそ、実現することです。
いくら心が自由だ、といっても、現実的に、好きなときに好きなことができたり、好きな場所に行ったりするお金がなければ本当の意味で『自由』とは言えませんよね?
資本主義経済の中では、住む場所にも毎日食べる食事にもお金がかかります。
そのお金を得るために、本当は望んでいない仕事に自分の時間やエネルギーを使っている、という状態があるのなら、それは『自由を損なわれた状態』だと言えます。
心と身体は一つのものです。
現実世界のしがらみ、仕事や人間関係に身体が囚われていれば、それは同時に心も囚われているということを意味するのです。
自由を実現するために磨くべき能力
人間として『自由』に生きるために必要なこと、そのために磨くべき能力はいくつかあります。
たとえば、人間関係を構築する力、つまり、『人間』の本質、心というものを理解する能力は、必須の能力だと言えるでしょう。広い意味でのコミュニケーション能力です。
そして、お金というものの本質を理解する力。
こちらも、資本主義社会で生きていくためには必須です。
人間は経済活動を行う、社会的で文化的な動物なのです。
お金の本質を理解する、というのは、『価値』というものの本質を理解して、自分を中心にエネルギーの循環を起こすための力とも言えます。
エネルギーというのは、スピリチュアルな意味だけではなく、物理学のエネルギーと同じで、『現実に変化を起こすための力の種、ポテンシャル』と考えてください。
具体的なものは挙げていけばいろいろありますが、『自由』であるために、絶対に必要なことを、抽象度の高い本質的な視点で答えるとすると、僕は『理性』の力だと考えています。
中途半端な理性は、自分で自分を縛りつけるものにもなりますが、磨き上げられた『理性』、それによって得られる『知識』は大きな武器になります。
なぜなら、『自由を創る技術』とは、言い換えると、『好きなものを選択するための能力』だからです。
人生のいろいろな場面で、『自分の好きなものを自由に選ぶ』ということができれば、その人は『真の自由』を得ている人だ、と考えていいと思います。
自分が本当に好きなもの、は知識を増やさないと観えてきません。
たとえば、イチロー選手のような人も、彼が小さな頃に、野球に関する情報をたくさん得て(そういう環境に生まれ育つことができたのも重要なポイントです)、野球というものにまつわる知識を増やしたからこそ、野球を選択できたのです。
理性の力 『情報リテラシー』と『心の自由』
『理性』をもう少し具体化して2つに分けると、『情報リテラシー』と『心の自由(意識の覚醒)』になります。
『情報リテラシー』とは、隠れた選択肢を見渡し、自分の進むべき道を光で示すための能力です。
そして『心の自由』とは、進むべき道を進むこと、その選択を自分に赦すための力です。
『情報の扱い』について学ばないと、自分の人生に役立つ知識を効率よく得ることができないばかりか、誤った知識をつけて、選択肢を限定してしまうことになります。
単純に、情報や知識が多ければ選択肢が広がるわけではありません。
今の情報過多の世の中では、多すぎる情報は『ノイズ』となって、その人が自分の人生に必要な情報に出会うことを、かえって邪魔する方向に働いてしまいます。
また、自分の人生の選択に対して、正しい知識を持っていたとしても、それを実際に行動として選択できなければ、現実は変わりません。
正しい情報を選別する能力(情報リテラシー)、その選択肢を行動に移すことのできる『心の自由』、この2つが根っこになります。これらを磨けば、人間関係の自由も経済的豊かさも、その他、『自由』の実現のために必要なものはすべて手に入れることができるのです。
ここに書いてきたことが、人生において『自由』というものをデザインし、創造していくための、大切な土台となります。
僕はもともと、スピリチュアル的なテーマで『悟り:意識の覚醒』というコンセプトで情報発信活動をして、会社員から卒業し、独立するところまでいきました。
ですが、実のところ、『スピリチュアル』をテーマに据えて、情報発信のコンセプトを絞ったのは、『僕が語るのが得意なジャンル』がスピリチュアルであり、起業するためにテーマを絞って、発信内容を尖らせる必要があったから、という、ビジネス、マーケティング的な理由によるものでした。
僕が『情報発信』そのものを始めたときに選んだテーマは、『自由』というもので、これは、僕自身が自分の人生の中で探究してきた大きなテーマでもあったんです。
参考記事:
ニセモノの自由人にご注意!本当の自由人は『人間らしさとしての5つの自由』を満たした人
悟り:意識の覚醒を経て、より人生を自由に楽しめる人へ
人生の中で、『悟り』は単なる通過点でしかありません。
その先には、人間としての『自由』を追求する、終わりのない道(未知)が果てしなく続いています。
とりあえず、僕のアタマの中だけにある、リバタイズするための技術を、しっかり体系化し、必要に応じてメソッド化し、たくさんの人たちに伝えていくことが、僕の活動のテーマであり、僕が世の中で果たしている『役割:機能』です。
その道程で、読んでくれる方、僕の発信する情報を受け取ってくれる一人ひとりの『自由への扉』を開き、必要な力を身につけてもらい、『仲間』として自由な人生を謳歌していきたいと思ってます。
単純な成功哲学や自己啓発でもなく、巷でよく言われるような、『お金さえ手に入れば後のものはついてくる(これはある意味『真理』でもありますが)』、
というのでもなく、また、スピリチュアルなだけでもなく、すべてを一通り知った上で、バランス(調和)に価値を置き、人類全体に共有できるような普遍的な『哲学:学問体系』として成り立つようなものを目指す、というのが僕ならではの持ち味になるのかな、と思ってます。
あと、僕のキャラクター的に、『肩のこらない自己啓発』『柔らかい成功哲学』というのもコンセプト的に考えてます。共感していただける方は、お付き合いいただけたらと思っています。
長くなりましたが、僕の考え、理念に共感していただける方は、メルマガに登録して、より濃い学びを受け取ってもらえたら、と思います。
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コメント
- 2019年 8月14日
- 2019年 8月14日
サトリさん、がっつり読ませて頂きました。
実は今までfreedomとlibertyの違いがいまいちわからなかったんですが
納得できました。
こちらもこれから拝読させて頂きます。
有難うございました。
長尾 拝
コメントどうもありがとうございます^ー^
今後も、がっつり濃い記事を書いていくのでよろしくお願いします(*´Д`*)b